ガラス玉の人生

【連載】人で見つけるガラス玉の人生「人間らしい反復の生」
藤澤マサヱさん

「宝石の人生ではなく、ガラス玉を探して旅に出よう」デンマークにはこんな歌があります。誰もを魅了する宝石はもちろん素晴らしいですが、ガラス玉も一つ一つ個性的な魅力を持っていて愛くるしい。私たちの人生も同じ。どれ一つとっても同じ輝きはありません。まさにガラス玉の輝きなんだろうと思います。人文学研究者であり高松市塩江町の地域おこし協力隊でもある村山淳さんは、そんな輝きを求めて里山で働く「人」を綴っていきます。一人一人個性的に輝くガラス玉の人生。そこに目を向けると、きっと価値観の幅を拡げる出会いがあるのだと思います。

幼少期、そして高松空襲山を掻く炭谷ゴボウ-糧を稼ぐ「人間らしい反復」

ひとつところに根を下ろし、大地を搔き、種を植え、その恵みで生きる。ただそれだけ、それだけを60年続きてきた人の重みは、森の中でふと大木に出会った時に感じる畏敬の念に通じるものがある。

塩江のさらに山間部、芦川に甕ヶ窪(かめがくぼ)という字の場所がある。昔、甕に小判を詰めて埋めたという埋蔵金伝説があることからそう呼ばれているそうだ。その甕ヶ窪から城山を望むようにして一軒の家が建っている。そこに一人で住んでいるのが藤澤マサヱさん、1955年に塩江の安原から嫁いできて以来、ここで農業を営んでいる。小柄で決して力持ちには見えないお婆さんなのに、若者が鍬を振るうと半日で立てなくなるような急傾斜地で農業を続けてきたマサヱさんの人生を尋ねた。

幼少期、そして高松空襲

生家は今の塩江町安原、萩寺で有名な最明寺の側にある。当時、塩江にはまだガソリンカーが走っており、最明寺の近くにも線路が通っていた。当時の記憶を伺うと、「線路に耳をつけてな、遠くからガタンゴトンガタンゴトンとやってくる音を聞いて、近づいてきたらワーっと逃げるような、悪いこともしてました。」といたずらっぽく笑った。今のように高速で動く電車とは違い、ゆっくりゴトゴトと動いていたガソリンカーだからこそできた遊びかもしれない。

甕ヶ窪に嫁ぐ前は高松市街地にあった病院で看護師をなさっていたマサヱさんは、1945年7月4日にあった高松空襲も経験しており、当時の記憶を話してくださった。燃える町から逃れて栗林公園に逃げる人の中には裸足で、髪が焼けている人がいたこと、帰り道の太田で田んぼに落ちた不発の焼夷弾を兵士が運び出していたことなど、風景を部分的に覚えているそうだ。

山を掻く

甕ヶ窪に嫁いでからは家業だった農業を手伝うようになった。今は隣接する炭谷地区の名産品である「炭谷ゴボウ」を中心に栽培しているが、当時、一帯の中心的な作物はタバコ。傾斜地で栽培し、収穫、屋根裏で乾燥(黄変)させ、真っ直ぐに延したあと、専売公社に売りにでていたそうだ。今のような県道も林道もついていなかった時代に、舗装もされていない山間の道を自転車で、しかもタバコなどの作物を山と積んで降りていく光景を想像すると時代を感じずにはいられない。甕ヶ窪に登る道は、舗装された今ですら、二駆の自動車では不安が残るほど険しい道なのだ。他にも黒豆を栽培し、塩江で甘納豆や黒豆茶に加工してもらったり、黍(キビ)や粟、玉蜀黍などを米の代わりに栽培したりしていた。戦後の貧しい時分に雑穀を食べていた人の中には「黍なんか見たくもない」という人もいるが、マサヱさんは黍が好きで、特に小黍(糯性の黍)を唐臼でついた黍餅は好物だそうだ。

傾斜地の畑には農業機械が入らないので、昔は土をモッコで平坦地に上げてそこで耕運機にかけた後、その土を畑に戻すという作業をしていた。ゴボウを抜くのも、鍬を振るうのも、重力をうまく使える傾斜地のほうが平坦地より楽とのことだが、一長一短、平坦地に慣れた身には「よくこんなところで・・・」という所感はかわらない。

炭谷ゴボウ-糧を稼ぐ

近くに茅場があったので、茅を使って炭俵を作り売るのも収入源のひとつだった。ゴボウも当時から栽培しており、今の花園町にあった市場に「金澤」の屋号で下ろしていた。輸送は当然、自転車だ。朝早くにゴボウを積んで家を出て、その日のうちに塩江の山奥まで帰ってきた。

自宅は優に築100年を超えており、嫁いできた当初は屋根が茅葺の家屋だった。しかし、1959年の伊勢湾台風のときに屋根が飛び、一部改築した上で瓦葺きになった。炊事場の水道は手動ポンプが流しに直付けされていて、「となりのトトロ」の世界にそのまま飛び込んだようなレトロ感だ。マサヱさんがきてからずっと同じポンプを使っているが壊れたことはない。当然のように「おくどさん」(竈)もあり、お風呂も薪炊きだ。山奥の古民家にひとり、寂しいことはないかと伺うと「気細いこともあるけれど、塩江みたいな“町”では気苦しい」とのこと。それにデイサービスの職員や、ゴボウ作りを手伝っている地元の方など、マサヱさんを訪れる人も多く、そういう方々とお話をするのが楽しみのひとつだ。

他にも楽しみはないかと尋ねると、「作物を売ってお金が入った時が一番楽しいなぁ」と豪快に笑う。炭谷ゴボウは当時から高級品で、多い時は1回の収穫で1年暮らせるだけの現金収入になった。往時の炭谷ゴボウの作付け面積は1反(約1000㎡)で、収穫は150kgを超えたそうだ。振るう鍬の重みに土の重み、かがんで種を蒔く腰の痛みに、草を引く背中に照りつける日差し。そういったひとつひとつの仕事が糧になり、生活を支えるお金になる。その楽しさは、生きていける安心感を伴って喜びになるのだろうと思った。とはいえ、現金な話ばかりではなく、お花をつくることも好きで、畑ですくすくと育つ夏野菜に紛れて、色とりどり、様々な種類の花が咲いていた。息子さんが植えてくれたザクロの木も花盛り。今年は豊作の予感だそう。実がなる時期にはカラスとの奪い合いになりそうで、今から行方が気になるようだ。

「人間らしい反復」

今でこそ人口が大きく減ってしまった塩江の山間部だが、歴史を紐解くと徳島への要所として栄えていた時期も長い。道中で力尽きた旅人を祀るお地蔵さんは今でもたくさん見ることができる。マサヱさんが若い時分には「地蔵祭り」と言って、それらのお地蔵さんの周りで数珠繰りをし、うどんやお菓子で労う祭祀がそこかしこで行われていたそうだ。見知らぬ人の霊を辻の神様として大切にしていた時代の世界観を生きてきた人たちの記憶は、また別の時代を生きる世代にどこか不思議で温かい感慨を与えてくれる。

耕すことと祀り、敬うこと。この2つの所作は自然に抗いながらもその傍で生きてきた人間の本性を端的に表している。大地を耕し、糧を得る。ただそれだけを繰り返してきた藤澤マサヱさんの人生は、その意味で、とても人間らしい。(18/8/16 村山淳)

この記事を書いたヒト

村山淳(むらやま じゅん)さん(左)
人文学者/高松市地域おこし協力隊
福島県いわき市生まれ。グラスゴー大学(スコットランド)に留学しスコットランドゲール語を学ぶ。一橋大学大学院言語社会研究科卒業後、妻の英里さん(右)と共に、地域おこし協力隊として高松市塩江地域に移住。コミュニティ支援活動の傍ら、歴史学、社会言語学の観点から言語とナショナリズム、マイノリティ形成などを研究している。時々、ハープ奏者、ゲール語民謡歌手。