ガラス玉の人生

【連載】人で見つけるガラス玉の人生「ゴルフじゃなくて、蕎麦の打ちっ放しやな」
魚虎旅館 松岡耕一郎さん

「宝石の人生ではなく、ガラス玉を探して旅に出よう」デンマークにはこんな歌があります。誰もを魅了する宝石はもちろん素晴らしいですが、ガラス玉も一つ一つ個性的な魅力を持っていて愛くるしい。私たちの人生も同じ。どれ一つとっても同じ輝きはありません。まさにガラス玉の輝きなんだろうと思います。人文学研究者であり高松市塩江町の地域おこし協力隊でもある村山淳さんは、そんな輝きを求めて里山で働く「人」を綴っていきます。一人一人個性的に輝くガラス玉の人生。そこに目を向けると、きっと価値観の幅を拡げる出会いがあるのだと思います。

 

仕事が人を創っていく耕一郎さんの1日蕎麦打ち蕎麦から滲む「人」

 

仕事が人を創っていく

そんなことを感じさせてくれる職人が塩江にいる。塩江にふたつある蕎麦処の経営者で、老舗の魚虎旅館の店主、松岡耕一郎さんを訪ねた。

左から息子の虎太朗くん、耕一郎さん、父の耕三さん、祖父の虎雄さん

魚虎旅館は創業明治初期の老舗、多くの旅館が生まれ、消えていく塩江で100年以上も旅館業を営んできた。耕一郎さんの5代前の店主で初代の虎蔵さんは、1905年の日露戦争後、傷病兵の湯治客で需要が増えた塩江温泉に移って商いを始めた。最初は東讃の津田から海産物を仕入れる魚屋さんだった。虎蔵さんが営む魚屋だから、屋号が「魚虎(うおとら)」なのだそうだ。その後、湯治客を泊める旅館を始め、耕一郎さんで6代目になる。1930年代、塩江にガソリンカーが通り、観光業が最盛期だった当時は近辺に旅館が13はあったそうだが、今は魚虎旅館だけになってしまった。その魚虎旅館も1999年に火事で建物が全焼し、立て替えて今の旅館になった。

建物自体は決して大きくないものの、魚虎旅館の中に入ると隠れ家に帰ってきたような気分になる。玄関をあがると床がガラス張りになっていて、下を鯉とナマズが泳いでいる。薄暗い照明、暖かさと床下水槽が相まって「隠れ家」感があるのだ。

「いろりの宿」と銘打っていて、食事スペースには囲炉裏がふたつ。そこで塩江名物の猪鍋をいただくこともできる。お客さん同士の距離が近く、相席で思わぬ出会いがあるかもしれない。それが逆に気になる人はお隣の蕎麦処「はなれ」の座敷でも囲炉裏が楽しめる。館内の様子はお部屋からお風呂まで、グーグルマップで公開中だ。

耕一郎さんの1日

職人とはいっても、耕一郎さんは気さくなお兄さんである。いつ訪ねても笑顔で歓迎してくれる。20代前半まで県内の企業で技術職と営業職をしていたが、魚虎旅館が全焼したのを機に塩江に戻ってきた。それまで旅館を継ぐのは「嫌で嫌で仕方なかった」のだが、「お前が継ぐなら旅館を建て直す」と先代で父親の耕三さんから言われ、継ぐことを決意したそうだ。

魚虎旅館の向かいにある蕎麦処「はなれ」はその後、耕一郎さんが始めた店で、蕎麦打ちから給仕まで、基本的に耕一郎さんがひとりで切り盛りしている。そんな耕一郎さんの生活は激務だ。普段は朝5時に起き、家族とともに旅館の宿泊客の朝食の用意をする。お客さんがチェックアウトしたらすぐに「はなれ」の仕込みをし、14時まで「はなれ」を営業をする。そのあとは旅館にチェックインするお客さんを迎え、夕食の用意。夕食後の片付けや掃除などをすると日が替わってしまう。魚虎旅館はひっきりなしに宿泊客がいる人気の旅館なので、ここ1年は休みなしでこの生活をしているそうだ。それでもお客さんの見送りは欠かさず、毎朝のように「ありがとうございました。お気をつけて」という明るい声が温泉通りに響く。旅館の繁盛を語るには耕一郎さんの奥さんの佳織さん、耕三さん・節子さんご夫妻の活躍を語らない訳にはいかないのだが、それはまた別の話としたい。

愛妻弁当を写真に残す耕一郎さん

耕一郎さんに、そんなに忙しい生活をしていて大丈夫なのかと尋ねると、やはり「しんどい」そう。最近は趣味のバイクにも乗っておらず、ダム好きの耕一郎さん一押しの豊稔池堰堤(観音寺市)にも行けないそうだ。それでも耕一郎さんはいつも笑顔でどことなく楽しそうにしている。その秘密は「蕎麦打ち」にあるようだ。

蕎麦打ち

香川といえばうどんなのに、なぜ蕎麦なのか。耕一郎さんが無類の蕎麦好きだった、というなら話は早いが、そういうわけでもないらしい。2000年に市営温泉の行基の湯がオープンした際、併設される飲食店の公募があった。市営の公募なので色々制約があり、そのひとつに「周辺の店舗と競合しないもの」というものがあったそうだ。案の定、制約が多すぎて他の業者が入らなかった。そこで父の耕三さんは塩江近辺に店舗のない蕎麦専門店を選び、経営を耕一郎さんに任せた。しかし、それまで年に数回しか食べず、特に好きでもなかった蕎麦を提供するのは簡単ではなかった。今でこそ二八蕎麦(小麦粉2そば粉8の割合の蕎麦)を提供しているが、当初は打ちやすい小麦粉5割で、うどん打ち用の機械を使っていた。店を訪れる蕎麦通からは厳しい言葉を投げかけられることもあった。

そのような言葉にもめげることなく、耕一郎さんは「毎日実験し」、蕎麦から様々なことを学びながら独学で技術を上達させ、蕎麦を打ち始めて15年になる。お客さんからの言葉もアドバイスとして受け取って、取り入れた。中には「牛乳で練ると延ばしやすい」などというトンデモな意見もあったが、ひとまず実践し自分の目で確認してきた。(牛乳で練った生地は当然、味がおかしくなったそうだ。)今も薬味のネギはまな板を使わずに空中でスライスするが、これはお客さんから「香りが違う」と勧められて良さに気づき、続けている技法だ。

耕一郎さんの蕎麦打ちは江戸流で特に「のし」(生地を延ばす作業)では、丸出し、四角出し、肉分けという工程が特徴だ。誰かに弟子入りしたわけではないが、江戸流が一番早く、きれいに仕上がることからこの打ち方をしている。「ただ、江戸に行ったことはない」そう。

「はなれ」の蕎麦を打つスペースは、耕一郎さんの聖域であり、避難所。蕎麦打ちは耕一郎さんにとって仕事であると同時に遊びでもある。木と蕎麦の香りが立ち昇る美しい作業場で蕎麦を打つ時間は耕一郎さんにとってお金のもらえる娯楽なのだ。

「ゴルフ打ちっ放しじゃなくて、蕎麦打ちっ放しやな。」と、耕一郎さんはいたずらっぽく笑った。文字通り寝る間もない激務を続けられる理由のひとつは蕎麦打ちなのだ。

遊びといっても、蕎麦打ちは真剣そのもの。作業場で蕎麦を打つ耕一郎さんは渾身で、リズミカルに打っていく。一定のリズムで進む挽き、練り、のし、そして斬り終わった麺は美しく並び、見ている側にも気持ちがよい。その麺の味わいは豊かで蕎麦の香りが鼻を抜ける。薬味に使う辛味大根は蕎麦の甘みと香りを引き立て、そば湯はどっしりと、蕎麦好きを満足させる一杯だ。つゆも厚節を煮て寝かせた出汁を使った自家製で、鰹節の香りが心地よい。

蕎麦から滲む「人」

お客さんが満足してくれる蕎麦を打つことはもちろんだが、耕一郎さんは誰よりも自分の蕎麦の出来に厳しい。粉は季節ごとに産地を変え、自分が納得できるものを揃える。大釜でも一度に茹でるのは4人前まで、「お客さんにはわからんかもなぁ」と言いながらも、妥協せずに小さな改善を積み重ねてきた。そして今は塩江屈指の蕎麦打ち名人であり、「はなれ」はリピーターも多い蕎麦処となった。茹で上がった蕎麦をざるに盛ってお客さんのところに持っていく耕一郎さんの顔は、納得の作品を手にする陶工のようだ。

蕎麦打ちの道具も徐々に揃えた逸品で、特に生地を練る鉢は地元香川の漆工芸品の職人に作ってもらったオーダーメイド品。塩江で展示会があった際に耕一郎さんがその美しさに惚れ込んで製作を依頼し、「それほど蕎麦が好きなら」と意気込んで作ってもらった。作ると決めたら最初から最後まで、細部まで作り込む職人気質は耕一郎さんと通じるところがあったのだろうか、手放すのが惜しいほどの逸品に仕上がり、若干恨めしそうに売ってくれたそうだ。

耕一郎さんは演台の上から自分の経営論を語るようなタイプの経営者ではなく、黙々と手仕事を積み重ね、蕎麦と対話をしてきた人だ。語る言葉に格言はなく、人を気負わせるような雰囲気もない。しかし、「はなれ」の蕎麦を食べ、話をすれば、じわじわと耕一郎さんのひととなりが馴染んでくる。無骨な殻をまとう蕎麦の実を、手塩にかけて一食の工芸品に仕上げていく仕事、それを長年こなしてきた職人が松岡耕一郎さんだ。その柔らかく、味わい深い半生を感じとることのできる幸せがここにある。

(2018/5/11 村山淳)

 

 
村山淳さん(左)人文学者/高松市地域おこし協力隊
福島県いわき市生まれ。グラスゴー大学(スコットランド)に留学しスコットランドゲール語を学ぶ。一橋大学大学院言語社会研究科卒業後、妻の英里さん(右)と共に、地域おこし協力隊として高松市塩江地域に移住。コミュニティ支援活動の傍ら、歴史学、社会言語学の観点から言語とナショナリズム、マイノリティ形成などを研究している。時々、ハープ奏者、ゲール語民謡歌手。