中の人日記

「買い手市場、 売り手市場 」
ヒトデの中の人日記 就活の歴史

これまで300人以上にインタビュー し、色んな暮らし方や生き方に触れてきたヒトデの秋吉が綴る日記です。どうぞご覧ください。読んでくれた方の「働く」という価値観の幅が、ちょっとだけ拡がるかもしれません。

 

「買い手市場」「売り手市場」/明治時代  エリートと就活/大正時代 育てて一人前に/就活文化の礎/昭和初期 大学は出たけれど/レールの上を、どうぞ/青いうちに/1人1社/「自ら探す」という就活/就職氷河期/意識を変えた震災/「働き方」を考える時代に/「働く」と「暮らす」の距離が縮まる

「買い手市場」「売り手市場」

就職市場を表す時に使われる言葉だ。労働力を売る「就活生」と、労働力を買う「企業」との関係性を表す。求人が多く、学生が労働力を売りやすい状況であれば「売り手市場」、その逆なら「買い手市場」といった具合。2017年現在、市場は専ら学生有利の「売り手市場」である。有効求人倍率も1.48倍(2017.6現在)と、バブル期の高水準を超えた。学生が敏腕営業マンさながらに、企業に自分を売り込める、いや、敏腕営業マンでなくても、面白いように商品が売れる時代なのかもしれない。日本の就職市場は、これまで様々に変化してきた。戦争や政府の思惑、世界の経済事情、天災など、様々なものがその背景にある。そして、これからはどんな時代になるのか。労働人口の減少や働き方改革、人工知能の普及、ロボットの登用など、就職市場に影響を及ぼす要因は数多ある。もしかしたら、誰にもこれからの就職市場を予想することはできないのかもしれない。それでも過去を振り返ることで、どこかにそのヒントはあるのだろう。就職市場を取り巻く歴史を紐解くことで、これからの就職市場を読み解く手がかりを探った。

明治時代  エリートと就活

当時、日本の大学は旧帝国大学しかなく、そこに入る大学生はいわゆるエリート学生と言われていた。多くの大学生が、卒業後に学会や官僚を目指していた。一部の学生は、大学の先輩にあたる中央官庁とのコネを活かした旧財閥系企業などに幹部候補として迎えられる事もあったという。その後、大企業のみならず、一部の中小企業も大学生の採用に乗り出すが、近代的で高度な教養を身につけた大学生を、上手にマネジメントできない旧態依然の組織体質である中小企業も多かった。

大正時代 育てて一人前に

第一次世界大戦を背景に、日本の景気は上向いていく。大卒者が次々とホワイトカラーの企業に就職する中、好況の原動力となった工場労働者のほとんどが、明治時代同様に「渡り職工」として、工場を転々としていた。多くの工場で高いスキルを身につけた労働力の安定した確保が課題となる。しかし、当時、大学と言えばエリート集団の旧帝国大学しかなかったため、企業はさらに若い世代へと目を付ける。高等小学校を卒業したばかり、14歳程度の若者を多く受け入れ、社内で育成する「職工学校」を各地の工場で設け始めたのだ。ここで教育を受けた若者は、実践的な技能を身につけた技能労働者として、卒業後にそのまま工場に就職するという流れが確立されていった。伸びしろのある若者を受け入れて、自社で教育・研修を受けさせ一人前に育てる仕組みは、その後、大卒者にも踏襲されていく。

就活文化の礎

1918年、政府によって「大学令」が交付され、私立の高等教育機関が、大学として文部省(現文部科学省)に認定された。これによって、大学生の数が急増。また、関東大震災などによる不況の影響もあって、就職を希望する学生が企業に殺到するようになる。いわゆる買い手市場だ。こうした中、各企業は入社試験を設け、採用する学生を選考する仕組みを整えていった。今の日本の就職市場をとりまく「新卒一括採用」文化の始まりである。各大学では、こうした選考に備えて就職部なるものが設立された。「終身雇用」や「年功序列」といった日本独自の就労文化の礎が築かれていったのもこの時期である。

1920年に戦後不況が訪れると、就職を取り巻く環境は一層厳しいものとなる。当時、大学に進学する男性は、100人に1人程度だったが、貴重な彼らでさえ就職するのが難しいという環境にまで陥る事になる。工場労働者についても同様で、深刻な就職市場に政府は手を打たずにはいられなくなる。1921年に「職業紹介法」を制定。各地に、現在のハローワークの原型と言える「職業紹介所」が設置された。当時の職業紹介所は小学校と連携し、卒業生を一気に企業へと送り出す仕組みを構築。新卒一括採用を加速させる存在となった。

昭和初期 大学は出たけれど

1929年、アメリカで起きた世界恐慌による不況の波は、日本の就職市場にも直撃する。史上かつてない就職難時代の突入である。大学卒業者のうち、就職ができるのは僅か30%ほど。次第に大学生の関心事は「学業」から「就職活動」へと移行していった。こうした状況を見かねた大学側は、企業に対して、入社試験を卒業後に行うよう通達を出した。しかし、その通達を守らず、陰で採用活動を進める企業が相次いだため、たった1年ほどでこの通達は廃止されることになった。

小津安ニ郎監督の映画「大学は出たけれど」が流行したのもこの時代である。大学を出た主人公の男が就職活動するも、「企業の受付係であれば採用してやる」という企業側の提案に憤りを感じて、一旦は踵を返す。しかし、生活費のために女房が女給(ホステス)で働いていることを知って、男は受け付け係からでもしっかりと働くことを決意するというストーリーである。当時、大学を卒業した人にとって、受付係で働くというのはプライドが許さないほどの仕事ではあったが、しかし、それをせずともいられないほどに不景気であったことが見事に描かれている作品だ。

レールの上を、どうぞ

1931年、満州事変、日中戦争が勃発した影響を受け、軍事産業需要が一気に加速。それに伴って国内景気もV字回復を見せる。景気が上向きになると、就職市場も活況となり、これまでの「買い手市場」とは打って変わって、企業に人が足りない「売り手市場」へと転換していった。1938年、日中戦争の本格化が進むと、政府は国家総動員法を制定し、国をあげて人員を戦争従事へと促していった。軍事産業の担い手になりうる工業系の学生には、国から企業を割り当てる「学校卒業者使用制限令」を制定。さらに1941年には「労務調整令」が制定され、国民学校(小学校)卒業生は、全て国民職業指導所(現在のハローワーク)経由の就職しかできなかった。まさに、戦時中の学生は自らが企業を選ぶということもままならず、就職活動は国家の意図によって敷かれたレールの上を歩まざるを得ない状態であったと言える。

青いうちに

日中戦争が終わると、軍事産業への需要低下に加え、戦地から労働者が帰還したことにより、日本の就職市場は再び「買い手市場」へ転換。大学生は勉強よりも就職活動に重きを置くようになっていく。1950年、朝鮮戦争が始まると、特需により景気は上向きに。企業側は良い人材の早期獲得を求めて、人材獲得競争を繰り広げた。企業側の採用アプローチがあまりに早いことが、さらに大学生の気持ちを「学業」よりも「就職活動」に向かわせていく。そうした状況を見かねた大学側は、文科省との相談のもと、企業側に推薦する日程を10月1日以降とする「就職協定」を通達として発表した。しかし、この協定を破って内定予定の学生を囲い込む「青田買い」が横行。あえなく1962年に就職協定は廃止された。

1人1社

1950年代は各地で設立された大学から卒業生が排出され、学生間の就職競争は熾烈になっていった。この頃、採用に際して、最も重要視されていたのが、学校での学業成績で、成績に応じて会社の求人を紹介するという「1人1社制」を導入する学校が相次いだ。当時もっとも多くの就職者を排出していた中学校では、職業安定所としっかりと連携して「1人1社制」を緩行。戦後の「労働調整令」で作られた、学校を卒業と同時に就職するという流れが更に確立されていった。「1人1社制」については、現在でもその名残が高校生の就職活動現場に残っている。

「自ら探す」という就活

1956年、日本の高度経済成長を背景に、経済白書に「もはや戦後ではない」と記された。企業間の人材獲得競争は熾烈さを増し、「青田買い」も常態化していく。就職協定も廃止された1960年代は、企業と学生を直接的に結びつける「就職情報産業」も生まれた。その背景には、大学闘争などで、大学からの企業への推薦機能が低下していったことがあげられる。この頃、江副 浩正(えぞえ ひろまさ)は株式会社大学広告(現:リクルート)を設立。大学新卒者向けに企業を紹介する「企業への招待」(現:リクルートブック)を発行し、社会に求人広告の地位を確立させていった。これまでの就職活動は、職業紹介所を通じて行われるなど、政府の思惑が色濃く現れていたが、この頃から少しずつ、大学生自らが行きたい企業を探してコンタクトを取るという就職活動が一般化されていく。1972年、再び大学は企業と「就職協定」を結び、行き過ぎた「青田買い」の抑制に動き出す。しかし、翌年1973年にオイルショックが勃発。日本の高度経済成長の終焉と共に、就職市場は「買い手市場」に転換していく。学生にとっては厳しい就職難の時代となった。

就職氷河期

バブル景気が1980年代半ばから始まると、就職市場は「売り手市場」へと転換。優秀な人材を求めた企業が、就職協定で定めた日程よりも早く内々定を出すなど、激しい人材獲得競争が行われた。1990年代初頭からバブル経済に陰りが見え、日本の景気は落ち込んでいく。当然企業は採用活動を鈍化させ、学生は非常に狭き門を争って就職活動を強いられることになる。「就職氷河期」と言われる時代である。1996年、実質的に機能していなかった「就職協定」が廃止され、代わりに経団連が「倫理憲章」を定めた。この「倫理憲章」は、民間企業の採用活動を適正化するためのガイドラインとして定めたものだが、内容的には「採用選考活動の早期開始は自粛する」といった抽象的なものが多く、経団連に加盟していない企業を中心に、人材の早期獲得は繰り返された。「就職氷河期」は2000年代半ばまで続き、その時期に正社員になれなかった人々は、契約社員や派遣社員で生計を立てざるを得ず、日本の社会問題としても、今尚指摘されている。

意識を変えた震災

2008年にはリーマンショックが世界同時株安を引き起こす。日本も例外ではなく、株安と円高に見舞われる。輸出産業、特に製造業がその煽りを受け、生産拠点を次々に海外へと移す「産業の空洞化」が進んだ。それに伴い、国内の失業率は上昇。就職市場も未だ「買い手市場」のまま冷え切っていた。2011年、東日本大地震が起きると日本の就職市場も混乱し、説明会や採用時期をずらしたり、被災地の学生を優先的に雇用する企業も現れた。震災は、多くの人の価値観を揺るがす出来事だったとされ、リクナビネクストが400名を対象に行った調査でも、40%以上の人が「仕事に対する価値観が変化した」と回答した。「家族との時間を大切にしたいと考えるようになった」や「より人の役に立つ仕事につきたい」といった回答が多かったという。身近な人とのつながりや、暮らしの安心・安全を求めて「地元で家族と暮らす」という選択をする人も顕在化していった。東京一極集中の大きな流れの中で、「地域思考」や「暮らしの充実」を求める人が徐々に増えていく結果となった。

「働き方」を考える時代に

第二次安倍政権を迎えた2012年以来、アベノミクスなどの経済政策によって、日本の経済市場は徐々に改善の兆しを見せる。しかし、同時に浮かび上がったのは労働人口の減少だ。経済回復と労働人口の減少、この2つを同時に迎えた日本は、強烈な売り手市場へと転換した。2017年5月、一人当たりの求人数を表す有効求人倍率は1.48倍となり、バブル期のピークだった1990年7月を上回った。このため企業側は、インターンシップ等に工夫を凝らして早期に人材を確保したり、人工知能やロボットを活用して、少ない人材での企業運営を試行錯誤し始めた。同時に、プレミアムフライデーなどをはじめとする働き方改革が政府を中心に勧められている。

「働く」と「暮らす」の距離が縮まる

これまでを振り返ると、実に様々な要因で就職市場が変化してきたことが分かる。その度に、企業や就活生が右往左往していた様子が眼に浮かぶ。しかし、いつの時代でも、人は働くということをやめず、それを通じて社会と繋がってきた。働くことは、人としての生き方そのものなのかもしれない。そして、多様な時代に突入した。人の数だけ生き方や幸せの形があり、互いがそれを認め合える時代。そうした時代の仕事選びも、もれなく多様だ。情報は欲しいだけある。その中から自分が何を基準にして、働く場所を選ぶのか。世の中の流行りや潮流ではない、自分の声に従って選ぶ。こうした価値観がじわじわと広がっている。

企業側は難しい。多様な価値観のどこに触れるか。何を基準に選んでもらえるか。正確に読み解くのは至難の技だ。いずれにしても大切になるのは、「働く」ということが「暮らす」と表裏一体になっているということを理解するということだろう。その企業で働くということで、どんな暮らし方が待っているのか。みんなが知りたいのはそこなのだ。「売り手市場」という言葉も、もう古いのだろう。労働力を売り込む学生と、それを買い定める企業。この関係は完全に逆転している。自社で働いてもらうために、企業側が自分たちを売り込む時代だ。腕を組んで机に座っていても、面接には誰も来ない。結婚相手やパートナーを選ぶのと同じように、誰と一緒に働くかを考える。「働く」と「暮らす」が一体になっている時代だからこそ、「人」という軸が働く場所を決める基準として、より大きな存在になっていくのだろう。

(2017/6/23 秋吉直樹)

参考
リクルートワークス研究所:http://www.works-i.com/pdf/r_000192.pdf
新卒.JP:http://hr-recruit.jp/articles/history
ハイスクールタイムズ:http://www.highschooltimes.jp/news/cat24/000269.html
りくなびネクスト:http://next.rikunabi.com/01/closeup_1135/