コラム

ヒトデ履歴書「男性でも女性でもないニューハーフとして働く」
プラウド香川 高野晶さん 第一話

学歴や職歴だけでは分からないその人だけの物語。それをお伝えするのがヒトデ履歴書です。誰と出会って、どんな時間を過ごしてきたのか。「出会い」と「仕事」の間にあるその人だけの物語を読み終えたあなたは、一緒に働く人の大切さに触れられるかもしれません。

ヒトデ履歴書一人目は、香川県高松市でセクシュアルマイノリティ支援を行なっているプラウド香川の高野晶さん。第一話は学生時代から一番最初に働き始めたニューハーフのクラブに至るまでを綴っていただきました。

 


高野 晶(タカノ アキ)さん
セクシュアルマイノリティ(性的少数者)のサポートグループ「プラウド香川」副代表
ニューハーフのクラブやデザイン事務所など、様々な仕事を経験し、現在はエステティシャン、ビューティーカウンセラーとして働く。仕事の傍ら、セクシュアルマイノリティの理解を深めるための講演を、自治体や教育機関・企業向けに10年以上実施している。

 

自分が「何者か」を知る「自分らしさ」を出せない就職活動このまま社会に出たくない…男性でもない女性でもない「ニューハーフ」として働くそんなに世間は甘くないわよ。やれるもんなら、やってみなさい

 

自分が「何者か」を知る

私は子供の頃から絵を描くのが得意でした。中学の頃から部員がほとんど女の子という美術部に入り、高校も美術科で勉強しました。既に自分が普通の男の子ではないということに気づいてはいましたが、その頃はまだ「性同一性障害」という言葉さえない時でした。大学も京都の美術系大学に進学し芸術学部でデザインの勉強をしました。私が初めて「性同一性障害」という言葉を知ったのは、その大学を卒業する頃でした。当時は夜の仕事をするニューハーフや同性愛者(ゲイ)の情報しか知らなかった私は(当時は今ほどインターネットが普及してなかったので、情報が伝わるのが遅かったのです。)最初は自分を「ゲイ」だと思っていました。大学生の頃に、たまたま書店で「性同一性障害」について書かれた本を見つけて、勇気を出して購入して読んだのを覚えています。その頃の私はまだ「一生自分のセクシュアリティのことは隠して生きていく」と決めていました。その本を読んで、私の人生は変わりました。心と体の性が一致しない人がいる、ということを初めて知ったのです。男性として男性を愛するゲイの世界に何となく違和感を感じていた私は、「性同一性障害」という言葉や状態に初めてしっくりとくることを実感しました。

 

 

「自分らしさ」を出せない就職活動

大学卒業後、私は他の学生と同様に就職活動をしていました。ただ、男性として就職活動をすることに強いストレスを感じながら。「男性として就職してしまったら、そこからはずっと男性としての人生が続いていくのか…」そんな風に感じて、それからの人生が不安で仕方がなかったのです。本当の自分らしさが出せてない状態で面接を受けても、人としての魅力や力強さが欠けていたのではないか、と思います。就職活動もある程度の段階までは進むことが出来たのですが、面接の段階で落ちました。自分の個性を出せない私は、いくら芸術的な能力や技術があっても面接になると何だか頼りない男の子にしか見えなかったでしょう。積極的にアピールすることも出来ませんでした。本当の「自分らしさ」を出せるかどうかで、人は大きく変わります。当時の私にはまだそれが出来ていませんでした。


まだ男として生きていた大学時代のクラスメイトと。(本人 中段左から二番目) 

このまま社会に出たくない…

大学を卒業する前に、初めて家族や親友だけには自分が普通の男の子ではないということをカミングアウトしました。それはとても勇気がいることで、人生をかけた告白でした。しばらくして病院で自分が性同一性障害であるという診断を受けました。その時の安堵感。初めて自分が何なのか、はっきりと分かって、私の心は落ち着きました。しかも、医療という社会的にも信頼のある分野で認められたことは心強かったのです。この頃の私は段々と人に男性として見られることがストレスになっていました。大学を卒業してからは、ずっと一人で部屋に引きこもっていることが多くなりました。就職を諦めて大学院に進学したのですが、私自身の内面に変化がないので状況は変わりませんでした。その頃、大学で唯一カミングアウトしていた一人の先生に相談して、大学院を休学して(そのまま辞めることになるのですが)、私は実家の高松に戻ることになりました。性同一性障害のカウンセリングを受けられる岡山大学病院が香川からは近く通いやすいということや、その頃に家族の問題にも悩まされていたことも重なり、勉強よりも先に性同一性障害や自分自身の問題に向き合った方が良いのではないか、ということが大学の先生と相談して出した結論でした。

大学院を辞めて帰って来た性同一性障害の息子を見て、当時の母はかなり不安だったと思います。「これからどうするのか」私だけではなく、母も私以上に心配だったでしょう。男性として働きたくない、その上、性同一性障害のカウンセリングを受けるために女性の格好をして病院に通わせて欲しい(当時の性同一性障害のカウンセリングの一環でリアルライフテストというものがあり、ある程度本人の望む性別で生活しているということが認められないと、女性ホルモンの投与を始められないというものがあったのです。)と母に申し出ると大喧嘩になり、病院に通わせてもらうことも出来なくなりました。自分で稼げる様にならないと、こういうことが起きます。未成年の性同一性障害の子供たちはそこで困って動けなくなる人も多いですね。自分で自分の生き方を自由に決めるには、まず働いて自立することが一番の近道とも言えます。

男性でもない女性でもない「ニューハーフ」として働く

当時のメディアでは「性同一性障害」という言葉が出てくることは滅多にありませんでしたが、日本で初めて岡山大学病院で性別適合手術がされるようになったというニュースが流れていました。「頑張れば、私も自分らしい体に変えることが出来る!」と、希望の光を見た瞬間でした。でも、メディアに出てくるのはほとんどがニューハーフという夜の仕事をしている人ばかり。小さい頃からずっとそういう人たちしか見てこなかった私も母も、その当時はやっぱりこういう生き方をするしかないのか、と残念ながら思っていたのです。「とにかく今の状況は不味い」と母は思ったのでしょう。たまたま母の知人が大阪でニューハーフのクラブでママをしている人を知っていました。その人に一度会って相談させてもらえないか、という話が進んでいきました。私も未来に不安を抱えたまま何も出来ずに、家で母からのネガティブなプレッシャーに押し潰されそうな毎日に限界を感じていました。行き場がなかったのです。私は大阪に行くことを決意しました。「行くなら働く覚悟で行った方が良い。」母の知人にもそう言われ、何とも言えない暗い気持ちを抱えたまま大阪のニューハーフのクラブで面接を受けたのです。実際にそこに行ってみると、私と同じ歳くらいのニューハーフたちは完全に女性にしか見えない体になって、堂々と働いていました。私は夜の仕事をすることに抵抗を感じながらも、その姿を観て「手術するまではここで頑張るしかない!」と、思ったのです。つまり、ニューハーフ(ホステス、ショーガール)としての仕事を好きではないのに、自分の体を変える目的のために私はそこで働くことにしたのです。そのことが自分が思っている以上に自分を傷つけることだとも知らずに……。


相談に乗ってくれていたニューハーフの先輩と。

私は2週間と経たないうちに「この仕事を選んだのは間違いだった」と感じていました。何故なら女性として働けなかったからです。ニューハーフのクラブという場所は、男性でもない女性でもない「ニューハーフ」として働く場所です。私が普通にしていると「女ぶってるんじゃないわよ!」と、言われました。何より嫌だったのが自分で自分を「オカマ」と言わなくてはいけないところでした。私は「オカマ」という言葉が今でも嫌いです。子供の頃から人が簡単に使う無意識のその言葉で、どれだけ嫌な思いをしてきたか分かりません。「ここは私らしくいられる場所じゃない……」そう気づいた時には遅かったのです。私が師事していたニューハーフのママに相談しても簡単には辞めさせてもらえませんでした。格好だけは女性の格好が出来ました。ホルモン注射も打ち始めることが出来て、見た目のストレスは軽減されつつありましたが、私の心はやられていく一方でした。23歳というのはこの世界では若くない年齢です。なのに、私はまだ新人。ママの紹介で入ったということは妬まれる原因になり、大卒で親に連れられて面接を受けに来たこともニューハーフたちからはよく思われていませんでした。本来ならニューハーフは席に着いて仕事をさせてもらえるのですが、私はママの紹介でオーナーを通さずに勝手に入ったということで、延々ホールに立たされてボーイさんと一緒に働きながら、ショーにも出ながら、お客様に呼ばれたら席に着く、というハードな働き方をさせられて、毎日疲れていました。それで仕事でミスをして、ハイヒールで叩かれたり、お腹を蹴られたりしたこともあります。仕事が終わってから、お客様に会うように言われて、そのままホテルに連れ込まれそうになったこともありました。そんなことがあっても、手術をするまではここで頑張るしかない、という思いだけが私の心の支えでした。

そんなに世間は甘くないわよ。やれるもんなら、やってみなさい

私を虐めるニューハーフたちに対して「いつかナンバー1になって、全員私の後ろで踊らせてやる!」そう思っている自分に気づいてその未来を想像した時、その時の私は幸せなのだろうか……と、ふと我に返りました。そうなった時にはもう、この世界以外では働けなくなってる様な気がしたのです。何故、私がニューハーフという仕事を辞められたのか。私が働き初めて3ヶ月くらい経った頃、お店が傾き始めたのです。私が師事していたあのママがお店のお金を使い込んだことが原因でした。私もいくらか借金を背負わされていました。(後にニューハーフ以外の仕事をして返しましたが。それはまた後の記事で。)ママが一番の問題児だったのです。彼女は薬に溺れていて、まともに話も出来ない時がありました。他のニューハーフの中にもそんな人がいました。薬に逃げないとやっていけないほどニューハーフという仕事は過酷なものなのかも知れません。そもそも、自分の性のことで何かしらの悩みを抱えている人たちです。私よりもっと辛い人生を送ってきた人も沢山いました。お店は下のスタッフからリストラしていきました。私にその話が来たときは万歳して喜びたい気持ちでした。「やっと辞められる!」実家の家族も、そんな状況の私を見て「もう戻っておいで!」と、言ってくれました。

辞めることになった私に、ニューハーフたちから次のお店に行かないかと何度も誘われましたが、全て断りました。これだけ辛い思いをするなら、普通の社会で差別されながらでも働いた方がマシ!そう思いました。「私は普通に働きます。」と、私が言うとニューハーフたちに「そんなに世間は甘くないわよ。やれるもんなら、やってみなさい!」と、言われました。「はい。やります。」私はキッパリ言いました。ニューハーフの中には良い人たちもいて、そういう人たちからは「あなたはここで働く人じゃないから、頑張って普通に働けるところを見つけなさい。」と、最初から言ってくれていました。※夜の仕事が普通ではないという意味ではありません。夜の仕事が好きで、いきいきと働いている人たちもいます。そこで働く彼女たちを愛している人たちもいます。


大阪時代。ニューハーフとおなべの人たちと。

私の3ヶ月のニューハーフ時代。決して長くはない時間だったはずなのに、何年もそこにいたように感じました。この間に私は人間の裏や闇の部分を沢山見せてもらうことが出来ました。それまで箱入りだった私にとっては、とても良い経験だったのかも知れません。ただ、今の私が自分のセクシュアリティのことで悩む若い人にニューハーフという仕事をすすめるかと言うと、微妙なところです。私の時代とは違い、学歴や能力があれば(ここ大事です。それがない人は熱意でカバーして欲しいところ。)諦めずに根気よく探せば、仕事は見つかる時代です。性同一性障害やトランスジェンダーでも何とかなる時代になってきました。他人がしない苦労はするかも知れませんが、就職活動で自分の個性を先方に受け入れられるかどうかは、普通の男性や女性と一緒です。その個性をマイナスに見ない人や、プラスに受け取ってくれる人もいるのです。そういう人に出会えるまで、諦めないことが一番大事なことだと思います。そう言った意味では、仕事だけではなく「人」と「人」を繋いでいくというヒトデのコンセプトはセクシュアルマイノリティの人たちにも向いているものだと思います。私が当時、ヒトデに出会えていたならば、助けていただけたかも知れませんね。まだそれがなかった頃の昔の私の仕事探しの旅はまだ続きます。借金を抱えたままニューハーフを辞めた私はどうなっていったのでしょう。次号をお楽しみに♪

 

「実は……私、性同一性障害なんです」高野晶さん 第二話

8/26 ヒトデTALK「LGBTと働くを考える Part2」