コラム

ヒトデ履歴書「実は……私、性同一性障害なんです」
プラウド香川 高野晶さん 第二話

学歴や職歴だけでは分からないその人だけの物語。それをお伝えするのがヒトデ履歴書です。誰と出会って、どんな時間を過ごしてきたのか。「出会い」と「仕事」の間にあるその人だけの物語を読み終えたあなたは、一緒に働く人の大切さに触れられるかもしれません。

ヒトデ履歴書一人目は、香川県高松市でセクシュアルマイノリティ支援を行なっているプラウド香川の高野晶さん。第一話では学生時代からニューハーフとして働くまでを綴っていただきましたが、第二話は地元高松に戻ってデザイナーとして働きながら、男性から女性に変わっていく様子をまとめていただきました。どうぞご覧ください。

 


高野 晶(タカノ アキ)さん
セクシュアルマイノリティ(性的少数者)のサポートグループ「プラウド香川」副代表
ニューハーフのクラブやデザイン事務所など、様々な仕事を経験し、現在はエステティシャン、ビューティーカウンセラーとして働く。仕事の傍ら、セクシュアルマイノリティの理解を深めるための講演を、自治体や教育機関・企業向けに10年以上実施している。

 

借金と逆戻り男性のスーツで就職活動「みんなちょっと聞いてくれ。実は晃はな……」仕事とは残るものではなく、生きたご縁

 

借金と逆戻り

高野 晶の「ヒトデ履歴書」も中盤に差し掛かってまいりました。私の濃厚な仕事探しヒストリーは続きます。前回は私のニューハーフ時代の仕事の話でした。ニューハーフという仕事をやっと辞めることが出来て、また香川の実家に帰って来たものの、その時に背負わされた借金だけはきっちり残っていました。借金のことは「高い授業料だった」と思うことにしましたが、借金はちゃんと働いて返済しないといけません。ニューハーフとして働き始めた頃から始めた女性ホルモンの注射を続けていくにもお金が必要でした。その時はまだ性別適合手術を受けられてなかった私は、そこで注射を止めてしまうとまた男性ホルモンが邪魔をして、せっかく女性らしく変化しつつあった体も元に戻ろうとするのです。先々性別適合手術を受けるための費用の他にも、髭や体の脱毛の費用も必要でした。その他にも女性らしく体を変えていくための費用は沢山必要なのです。性別適合手術を受けるために始めたニューハーフの仕事でしたが、結果的には借金だけが残るという結末で終わった私は、この頃は性別適合手術をする夢が遠退いた様に感じていました。

直ぐに就職するのは難しいと思っていたので、アルバイトをしながら就職活動することにしました。そこで問題になったのが、まだ女性化しきれていない風貌でした。よく見たら男の子?という不思議な感じだったと思います。幸い、その頃「フェミ男」という中性的な格好をする男子がブームでした。私はその流行りに乗っている振りをして、誤魔化していました。それでも、バイト先で一緒に働いている男子から「ちょっと聞いて良い?高野くんて何なん。かわいいなぁ。」と何度も言われて、言われる度に気持ちがモヤモヤしていました。中身は女性でも私の見た目はまだ男性の枠を出ることが出来てなかったからです。悔しくてもまだ男性として働くしかなかったのです。スカートを履くこともしばらくは封印していました。また逆戻りです。

男性のスーツで就職活動

私はアルバイトをしながら、大学の頃に勉強していたデザイン系の仕事を探していました。元々好きな分野だったからという理由もありましたが、デザイン業界は他の分野に比べてセクシュアリティのことに寛容な気がしていたからです。それはアート系の高校、大学に通っていた頃から実感していました。セクシュアリティも個性の一つとして捉えてくれる人たちが多かったのです。(そういう感覚に世の中の人みんなが持っていてくれたら、セクシュアリティの偏見や差別は無くなるのかも知れませんね。)ちょうど半年くらい経った頃、デザイン会社の面接を受けにいくことになりました。そこでまた母と揉めることになったのです。「男の子として就職するんだから、ちゃんと男性のスーツを着て面接に行きなさい」私はそれに反発したのですが、「そんなのではいつまで経っても就職出来ないわよ!」と、言われました。「クッソ~!」と、激しく悔しさを感じながらも、「これも就職のため就職のため……」と、自分に言い聞かせて、面接に挑みました。

大学卒業前の就職活動用に制作した自分の作品を集めたポートフォリオがここで再び役に立ちました。人生に無駄なし。面接を受けながら思ったのは、引きこもらずにちゃんと大学で勉強して卒業しておいて良かった、ということです。高校や大学を卒業してないとうまくいかないということではなく、他の人たちと並んだ時に出来るだけ同じスタートラインに立てるようにしておくことは必要だと思います。特にセクシュアルマイノリティーの場合は、そのことがマイナスに働く場合もまだ多いですから。私が就職することになるこのデザイン会社の社長さんは、若い人の感覚と広い心を持った人格者でした。私が伸ばし始めた髪については面接の時に少し触れられた気がしましたが、それも個性として取ってくださった様でした。そんな寛容な人がいても、私がカミングアウトしたのは就職してしばらく経ってからでした。最初から自分らしく堂々と出来てない時のカミングアウトというのは、余計にハードルが高くなります。


デザイナー時代の仲間と

「みんなちょっと聞いてくれ。実は晃はな……」

採用が決まり、私は無事デザイン会社でデザイナーとして働くことになりました。私は男性として迎え入れられました。2週間ほど経った頃、仕事自体はとても面白くて、このまま長く続けていくかも知れないな……と、思いました。それと同時に、このままずっとここで男性として働き続けることに不安を感じ始めました。ニューハーフは完全に女性として生きられる世界ではありませんでしたが、男性として見られることもありませんでした。「彼女はいるの?」何気無い普通の会話なのですが、男性として扱われる度に、段々とストレスは溜まっていきます。アルバイトと違って、会社のスタッフたちとの距離も近い。私はカミングアウトするなら早めの方が良いと思いました。言って駄目なら、その時はまた別の道を考えれば良い、と。

新人の私の面倒を見てくれていた女性の先輩とお昼をよくご一緒させていただいていたのですが、ある日のランチ中にカミングアウトするタイミングが訪れました。「実は……私、性同一性障害なんです」と、カミングアウトしてこれまでの経緯をお話しました。その先輩は私の話を聞いて「よく話してくれたね。勇気が要ったでしょう」と、言ってくれて、私がどういう風に扱われたいのか、これからどんな風に働いていきたいのか、相談に乗ってくれました。リスクがあっても自分の人生を変えていくなら、本当のことを伝える勇気が必要なのです。それから、その先輩は社長に相談してみる、と言ってくれました。そこから話は早く、それを聞いた社長に呼ばれて私と話し合ってくれました。「みんな、集まってくれ。ちょっと晃(アキラは私の元の名前)のことで話があるんや」と、会社全体で会議に。「実は晃はな……女の子なんや」「…えっ!!!」そんな言葉足らずな始まりでしたが、私の事情を詳しくみんなに説明してくれました。「女の子っぽい子やな、とは思ってました」「びっくりしましたけど、別に良いんじゃないですか」みんな、そんな感じの反応でした。「うちは仕事さえ出来たら問題ないから」と、言ってくれました。場合によっては辞めなくてはいけないと思っていたので、ホッとしました。やっと自分らしく自分がしたい仕事が出来る。そこから2年間、私はこのデザイン会社でお世話になったのです。


デザイン会社をやめた後、久しぶりのOBOG会にて。

2年間の間に私はホルモン注射を打ち続け、髭の脱毛も完了。女性ホルモンの効果を上げるために、去勢手術(性別適合手術の前の段階)も受けました。2年経った頃には仕事にも慣れ、新しく出会う仕事絡みの外部の人や、会社の後輩にはカミングアウトしなくても自然に女性として接してもらえるようになっていました。仕事で出会ったいい友達も出来ました。このままずっと続けるのかな、と思っていた頃、体調を崩しました。出勤中に目眩を起こして倒れかけるという人生で初めての経験でした。(あのハードなニューハーフ時代ですらそんなことはなかったのに。)私は仕事に根を詰めるタイプだったのも良くなかったのかも知れません。とても残業の多い職種でしたので、生活のリズムが崩れやすいということもありました。眼精疲労から来る肩凝りや偏頭痛も慢性的でした。そんな状態の時に恋愛のことでショックな出来事があったり、先輩が辞めることになったり、とあらゆることが重なりました。デザインという仕事は自分に向いているし興味深い、でも、疲れて楽しく仕事をすることが出来なくなっていました。このままずっとここで働き続けるという想像が出来なくなっていました。気がつけばもうすぐ27歳。方向転換するなら今かも知れない。そう感じていました。

就職した頃の私を知る一部の人たちが私の事情を知った後でも、私をずっと「高野君」と呼んでいるのが気になるとか、そんな程度のストレスはありましたが、その他の人間関係に関しては、問題なく恵まれていたと思います。今でも、社長や先輩たちのことは尊敬していますし、私が良いご報告が出来ることがあれば、これからも会って伝えたくなる人たちです。

仕事とは残るものではなく、生きたご縁

デザイナーという仕事を経験したことは、今の仕事をしていても無駄にはなっていません。色んな経験をしていると人とのコミュニケーションにとても役に立ちます。デザイナーとして培ったセンスや経験が、私が今関わっている色んな仕事に活かされることも多いです。それはこれからも変わることがない財産だと思っています。ただ、デザインという仕事が肉体的にもハードな仕事だということは、働いてみるまで分からなかったですね。何事も実際に経験してみるまで分からないのです。経験してみたら違ったということもあります。経験してみたら、想像以上に良かったということもあります。


プラウド香川の藤田さんとの編集風景。お二人の最初の出会いもデザイナーの仕事を通じてだったそう。

仕事というのは、後に残るのは仕事だけではないのです。それよりも大事なのは、その時に関わった人たちとの縁がその後にも活きて残ることです。私はデザイナーという仕事の後、エステティシャンという仕事に就きます。そのエステティシャンという仕事に女性として就くまでに、その人との縁に大いに助けられたのです。 次回の高野 晶のヒトデ履歴書」は、今の私が「本当に自分らしく」働いている仕事についてです。ここまで私のコラムにお付き合いくださった皆様、ぜひ最後までお付き合いくださいね。

 

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8/26 ヒトデTALK「LGBTと働くを考える Part2」